硬式庭球部の歴史
久留米大学硬式庭球部
その歴史は昭和32年(1957年)から始まります。
先輩方より受け継いだ伝統を胸に、これからも硬式庭球部は躍進を続けます。
「久留米大学医学部硬式庭球部史編纂にあたり」
小須賀 健一
昭和39年卒 久留米大学医学部硬式庭球部OB会名誉会長
久留米大学客員教授
私達が久留米大学医学部を卒業して50年が経過した。
OBのメンバーも300人を超えた。
硬式庭球部創設から50年以上経ち現在までの記録を少しでも残しておこうという機運が幹事会で高まり、今回手分けして記録を呼び起こしなるべく正しく書き残そうということになった。
創部は昭和32年(1957年)という事になっているが、当時は部としての形態はなかった。
私が久留米大学に入学したのは、昭和33年(1958年)4月、18歳であった。
大学に入り部活はどこにと、迷っているとき、御井学舎(当時進学課程は、商学部の一角にあった)で、誰もいないテニスコートが目に入った。
全くテニスの経験のない自分でも通用するのかも知れないと漠然とした期待を抱いて、硬式庭球部に入部した。
入ってみると新1年生が6人いた。
富田春英、木村(南部)征喜、渡辺径宏が経験者、池田明生、末永英文、そして小生はラケットを一度も持った事のない初心者であった。
当然新入生はボール拾いからと覚悟していたが、何と一年上のクラスにはテニス部はいなかった。1年生だけの練習だが経験者と初心者には実力差が歴然としていた。
1年生及び2年生の間は商学部のコートで、商学部のテニス部の中で、もまれているうちにボールは相手コートに入るようになった。3年生(当時は専門1年と称されていた)になると、旭町キャンパスに移った。
ここには、学生用テニスコートはなかった。教授及び医局用のコートが二面あり、教授や医局員が使っていない時間を借用して練習するしかなかった。医局の仕事が終わる5時過ぎからは、教授、医局員が出てくるので、審判かボール拾いに専念させられた。当時、毎日のようにテニスコートに出て来られる教授は、第二外科西村正也先生、整形外科宮城成圭先生、眼科増田義哉先生、法医学太田伸一郎先生、第三内科木村登先生、ヴィールス学中川洋先生、細菌学中村昌弘先生、等が主なメンバーであった。当然、学生が練習できるのは5時までであり、午後の授業は代返か出席カードを友達に頼み、留年はしない様に計算しながら、講義はサボって練習に励んだ。
専門2年生(現4年生)になると未経験者と有経験者との差が縮まった。当時の部員は二年上(37年卒)に、山田元久、吉田義一、出口忠男、中村日吉、金子博昭の5人の先輩、その上(36年卒)に、久留米大学硬庭部のレジェンドである深水孟先輩が一人輝いていた。深水先生は西日本医大大会シングルス4連覇という偉業を成し遂げた。
更にその上の35年卒に、本間一弘先生、伊豆統一郎先生がおられた。しかし、現在の日本のデ杯と同様に、錦織だけでは団体戦は勝ち抜けず、深水先生一人では西日本医大大会等団体戦を勝ち抜くのは無理であった。昭和37年(1962年)専門2年の時は、一年上に部員がいない為、富田春英が主将となった。先輩達は余り練習には出てこなかった。当然、一年後輩の、後藤淳郎、吉崎英一郎、小林詢弥の3名と我々同級の6名の計9名を中心に西日本医大大会に臨んだ。二年下のクラスの、大蔵文治、田中潔、市川昭則が一緒に練習した。その下に、進藤憲文、さらにその下(4年下)に池田秀夫、伊藤祐二、岩永紘一、大津山泰、古賀昭次、重藤紘、山本英正達がおり、何となくテニス部としての陣容が整ってきた。
さらに、小林修、西村祥三、葉山泉が入部し、我々の卒業時には澤田征洋、小鳥居湛、桑原靖道らが、入部してきた。
昭和38年(1963年)専門3年生(現5年生)の時、同級生の富田春英より小生が主将をバトンタッチされた。この頃には部員が20人を超えるようになった。この38年、初めて、西日本医大大会で、富田、小須賀、吉崎、後藤等のメンバーでベスト8に進出した。
昭和39年(1964年)は、初めてのシードとなり、吉崎、後藤、小林、大蔵のメンバーで二年連続ベスト8にくい込んだ。そして富田春英が個人戦シングルスで決勝に進出した。惜しくも敗れたが、準優勝を勝ち取った。昭和38年(1963年)~39年を勝手に自分達で第一期黄金時代と称した。
昭和38年(1963年)小生が主将になりマネージャーの同級生である末永英文とコンビを組み、学生専用コートの建設を計画した。当時テニス部部長であった第二外科西村正也教授に相談に行った。西村教授には、「学生も寄付金を集めるから大学当局に学生専用コートを作るように説得してください」と、懇願した。西村教授は、即行動を起こされた。先生から土地を探せと言われた。篠山グランドは市の所有物であり、土地を借りてテニスコート造設は無理との結論だった。途方にくれた。テニスコート四面を作られる広い土地は見つからなかった。グランド東側に篠山城の堀があった。当時、蛙の生息地で異臭と蛙の騒音で、近所のBS社宅の人たちから悪評高いドブ状の堀と化していた。第二外科教授室ヘスッ飛んだ。「先生、あの堀を埋め立てたら四面のコートができます!!」
丁度その頃、筑後川の堤防強化工事が計画され、自動車部練習コースと教授医局用テニスコートが国に収用される運命になった。大学も動いてくれた。西村教授が、ブリヂストンゴム株式会社に、工場からの産業廃棄物である石炭ガラ(シャモット)を、ドブ池を廃棄場所にして埋め立てるように交渉していただいた。12tトラックの往復が数ヶ月続いた。レンコン堀は完全に埋まった。しかし、沼地の埋め立てのため下から水が湧いて来た。
医局棟に近いI面、II面コートが医局用コート、III面、IV面が、学生コートとして初めて、硬式庭球部のコートを持つことができた。
昭和39年(1964年)久留米大学を卒業し、1年間九州大学病院でインターンを過ごした。昭和40年(1965年)、当然、テニス部員であった末永英文、池田明生と共に、西村正也教授の第二外科の医局の門を叩いた。第二外科は一気にテニスブームとなった。第二外科入局後もテニスだけは続けた。練習相手にはこと欠かなかった。しっかり西村教授のボール拾いをした。
昭和40年(1965年)10月、西村教授は、母校の九州大学第一外科教授として赴任された。そして、耳鼻科の広戸幾一郎教授がテニス部部長となられた。
昭和50年(1975年)日本庭球協会がジュニア育成のため指導員養成制度を立ち上げ、第1回試験を行った。第二外科のテニス部出身者3人で受験した。一日目、講習及び筆記試験、二日目に、実地試験(技術の審査)で指導者の資格を得た。今も年1回、東京北区にある国立スポーツ科学センターで、2日間の講習を受け、上級指導員としての認定更新を続けている。
錦織圭選手がプロとして、世界のトップ5にランキングされ、ジュニア養成の機運は今までにない盛り上がりを見せ、底辺は広くなってきた。日本人の悪い癖で、宮里藍が17歳で初優勝して世界のトップ10に入るとジュニアのゴルフブームが始まった。今回はエアーケイの活躍でテニスのジュニア教室が賑やかになってきている。このブームがいつまで続くか、ここで、日本から二の矢、三の矢が飛び出してきてほしいと願っている。医学部のテニス部とは、いささかレベルは違うが、医学部学生でもインカレで日本でのランキングプレイヤーはたくさんいる。我が久留米大学医学部硬式庭球部からも、インカレランキングプレイヤーが出てくる事を夢に描いているが、現在の医学部教育制度では、矢張り夢で終わりそうである。
医師となった後も、世界医師会テニス大会で個人優勝を重ねている富田春英氏、大蔵文治氏のように卒業後も続けていってほしいと思っている。又、ジュニア育成にも手を貸してほしいと願っている。
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①昭和30年(1955年)~昭和38年(1963年)
<教授会用コート2面>
教授医局員がいない時にテニス部が使用。5時からはボール拾い -
②昭和39年(1964年)学生の熱意で四面のクレーコートが完成した
③平成4年(1992年)大学駐車場建設のため現在の地の移設となった
年表 Chronology
- 1957年
- 硬式庭球部創設
- 1959年
- 深水孟、西医体シングルス優勝
(S34~37 4連覇)
- 1964年
- 学生用コート完成
- 1971年
- 九山男子優勝
- 1971年
- 西医体男子優勝
- 1972年
- 九山男子優勝
- 1972年
- 西医体男子優勝(2連覇)
- 1972年
- 第6回全医体(二日市)男子優勝
- 1972年
- 西村治夫、板家守夫、深水良インカレ出場
- 1973年
- 九山男子優勝(3連覇)
- 1973年
- 深水良シングルス優勝
- 1974年
- 深水良シングルス優勝
- 1975年
- 小須賀、日本テニス協会テニス上級指導員を取得(現在まで更新)
- 1978年
- 九山男子優勝
- 1979年
- OB会発足
- 1979年
- 九山男子優勝(2連覇)
- 1981年
- 九山男子優勝
- 1982年
- 西医体男子優勝
- 1985年
- 九山男子女子優勝
- 1987年
- 大堂、緒方インカレ出場
- 1988年
- OB会10周年記念カトウズハウス設置
- 1989年
- 九山男子優勝
- 1990年
- 西医体優勝
- 1991年
- テニスコ ート移転
- 1991年
- カトウズハウスも移設
- 2004年
- 九山女子優勝
- 2004年
- 西医体男子優勝
- 2005年
- 九山女子優勝(2連覇)
- 2017年
- 九山男子優勝